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アナリストコラム

日本のヒエラルキーと企業組織・社会構造の在り方に関する一考察 -藤根 靖晃-

2008年12月19日

日本企業の組織構造は “社会主義的” と高度成長の時代から評されてかなり経つ。
入社年度が同じであればある一定期間はほぼ同じ昇進・昇給で、殆どの人が定年まで勤めることが出来る。若い頃は低い賃金であっても、能力に関わらず年齢が上昇することによって一定の賃金が保証される。若い人の働きが高年齢層の賃金を、あるいは能力のある人の働きが能力の劣る人を補っているという点で、”社会主義的”であると言われる。この構造がバブル以降の不況と近年の株主資本主義の広がりによって崩壊しはじめている。一方で、成果主義・能力主義の弊害から旧来のシステムに回帰する傾向も見られる。果たして、日本が進むべき道は何処にあるのだろうか。

これは、あまりに大きな命題であるだけにその答えを現時点では全く持ち合わせていない。
しかしながら、”社会主義的”と評された日本型雇用システムは、”階級主義的”と読み替える方がより合理性があると考えている。日本では、江戸時代の鎖国と封建主義、さらには移住の禁止等によって集団主義的自我形成が行われてきた。個人のアイデンティティ(=自我)は、自らよって立つのではなく、集団的合意の中で形成される(反論があるかもしれないが、これに対する詳説はここでは省略させていただく)。”村”(=地域共同体)に於いては、地主の本家長老が最も権威を持つ。能力や人格よりも家柄が重要視される。
同様のヒエラルキーは、伝統的日本企業に踏襲されている。共同体である企業内では、係長、課長、次長、部長、取締役と上位の階級を上ってゆく。企業内において”家柄”に相当するのが出身大学である。不始末を起こさない限りは、左遷はあっても降格は原則無い。そのヒエラルキーがプラットフォームとなって構成員(=社員)全体に共有されていることによって、人材に依存せずに一定の役割を担うことが出来る。極端に言えば、マネジメント能力の優劣や人格に関わらない。中間マネジメントは本質的なことについて考える必要がないシステムである。社長が次期社長を指名するのはヒエラルキーの象徴であり、後継者の正当性を担保する。

また、日本的特徴として、職業上のヒエラルキーがプライベートも支配する。終業時間外であっても上司と部下の関係が継続される。部長は部長であり、課長は課長であり、友人となり得ることは稀である(「奥様は魔女」のダーリンとラリーの関係は、子供の目から見ても不思議ではなかっただろうか?)さらに、勤務している会社の規模や格、知名度、給与水準が社会的ヒエラルキーを構成する。かなり以前(30年前)であるが、夫の勤務先・役職が小学校PTAでのお母さんの序列を決定していたことは特殊なことではなかった。

グローバリゼーション(アメリカナイズド)の進行により、こうした日本的ヒエラルキーを忌避する傾向が強まっている。若者がヒエラルキーからやや離れたゲームやWebなどクリエイターへの志向を強めることも、資格取得がブームになることも、上司の誘いや会社の飲み会を避けることもこの文脈から説明ができる。ヒエラルキーにまだ組み込まれていない新入社員は、業務の意味を十分に説明されないと上司の指示にも動かない。
日本的ヒエラルキーの外側に存在する女性が結婚をしたがらないのも、結婚によって配偶者のヒエラルキーに組み込まれることを嫌うからかもしれない。あるいは、もっと単純にヒエラルキー社会に洗脳されている日本男性に魅力を感じないからかもしれない。

しかし、ヒエラルキーからの脱出を試みようにもそんな教育は受けていない。知識偏重型の教育は自分自身で本質を考える力を剥奪する。また、本質的に考える力を醸成するには”個”としてのアイデンティティをまずは確立させなければならない。”ゆとり教育”が目指したものは子供たちに考える力を身に付けさせることだったのだろうが、教える側の教師がヒエラルキー構造の中にあっては意味が無い。先生は与えられた指導要綱に沿って教える役目で、生徒はただ教わるのが役目。この構図が変わらなければ成らなかったのだ。
“ゆとり教育”の失敗による学力低下によって、逆回転が加速している。「早稲田、慶應あたりに子供を入学させることが出来れば将来は何とかなるのではないか」、と思って”お受験”にやっきになっている父兄も多い。しかし、その親心が結局は子供を知識偏重教育の中でスポイルさせているだけではないのだろうか?

さて、日本の製造業は競争力が高いと言われ続けてきた。(反論もあるだろうが)社会的なヒエラルキー構造が、工業化社会にとっては重要な基礎的条件となっている。1960年代に梅棹忠男氏(現、国立民俗学博物館 顧問・京都大学名誉教授)が、「文明の生態史観」において西ヨーロッパと日本において封建制度の存在が工業化の発展に優位に働いたことを示唆しているが、日本の大企業をみる限り、そのヒエラルキー構造はいまだに強固である。

強固なヒエラルキー構造を持たない大会社もあるが、それは類稀な創業者が健在であるか、創業世代が残っている場合に限定される。さもなければ、強固なヒエラルキーへの移行を果たさねばならない。

「真面目ナル技術者ノ技能ヲ最高度ニ発揮セシムベキ 自由豁達ニシテ愉快ナル理想工場ノ建設」と設立趣意書に謳われたソニーは、創業世代が居なくなった今日において、「クリエイティビティの実現」と「製造業としての基盤の強化」という二律背反する命題の中で揺れ続けている。ソニーの問題は”経営の失敗”と単純に結論づけてしまって本当に良いのであろうか?それは、未知の領域への変革と旧来のヒエラルキーへの回帰に混迷する日本の経済・社会(=日本人)を象徴しているように思えるのは見当違いだろうか?

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