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自分を信じるということ -15の夜-

2013年05月31日

15歳のときだった。
高校の4階の校舎と、隣接してある講堂との間には1mくらいの隙間しかなかった。4階校舎の天窓から屋上までの高さは180cmくらいだったので、その間をよじ登ることが出来るのではないかとある日思いついた。
もちろん、下には何もない。失敗すればコンクリートの地面にまっさかさまに落ちる。運が良くても重傷は避けられないだろう。

しかし、可能性に気付いてからはその空間が気になって仕方がなかった。1ヵ月以上の間、毎日、その場所に行って、何度も確認し、頭の中でシミュレーションを行った。180cmと思っている高さが2m以上あった場合はかなり困難になる。何度も目視して2mはないと確認した。天窓から這い出して、体の向きを入替、1m先の講堂の壁に手を突いて天窓に足をかけてゆっくり立ち上がる。そうすれば、屋上に手が届く(はずである)。
来る日も来る日もシミュレーションを続けて『絶対に出来る』と確信した。
確信が生まれるとそれを実行してみたくなる。実行しなければ『絶対』を手に入れることは出来ない。「私は、自分自身を本当に信じきることが出来るのだろうか?」と。

そして或る日、意を決して挑戦することにした。
このことは友人の誰にも話さなかった。話さなかったのは、見物人が来て集中力を殺がれるのがイヤだったこともあるが、もしも、失敗したときに誰かが責任を感じたり、後悔といった心の傷を負うことは避けたかった。

天窓にクビを突っ込み上半身を入れる。体を回転させて下向きから上向きに体を入れ替える。片足を外に出して体勢を整える。
ここから先は後戻りが出来ないかもしれない。

1m先の講堂の壁に右手を伸ばして体重を預ける。足を天窓にかけ、少しずつ右手の位置を上げながら体を起こしてゆく。下は見なかった。見れば恐怖に負けてしまうような気がしていたのもあるが、そんな余裕はなかった。天窓の窓枠を掴んでいた左手を離し、両手で講堂の壁にもたれ体を支えながら立ち上がる。全ては何度もシミレーションした通りである。
そして、斜めにほぼ立ち上がった状態で屋上の縁に手を伸ばす。ここが勝負だ。

伸ばした手は、思っていた以上に余裕があり、幅のある縁の反対側にまで手が届く。思い切り伸ばした手の先に(全く予想外だったが)指ががっちりと掛かる溝があった。その瞬間、勝ったと思った(あの瞬間は今でも忘れない)。
あとは体を引き上げればよいだけである。

体を引き上げて、屋上のコンクリートに転がるように寝転がった。
勝利の喜びが脱力した体を震わせるのを感じた。

この経験は、自分自身を強く信じることが出来るという確信を与えてくれた。
ハイレベルでのスポーツ競技や、高い目標をクリアした人だけが得られる感覚にどこか似ているのではないかと思う。

話が飛躍するようだが、投資も同じである。自分の予想にどれだけの信頼を持てるか、それだけである。
日本人が確定利回りの預貯金を好むのは、最終的には自分を信じきれていないのではないかと思う。そして殆どの人はそれ(自分が自分を信じていないということ)を正面から認識していないのではないかと思う。
否定的な意見を並び立てると、主張を直ぐに変えてしまう人が多い。そういう人はただの保身(表面上相手に迎合して取り繕っているだけ)の場合も多いが、自分を信じきることが出来ないのだろう。
自分自身を信じきれないことを認識して、そこから逃げ出さずに向き合うことができる人は、信じられる本当の自分自身をいつかは獲得できるのではないかと思う。
私自身もまだ途上ではあるが、そう思いたい。

自分を信じきることができる究極の姿が、本当の意味での『信念』ではないだろうか。

Written by 15の夜

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