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カンドウ大量消費大国ニッポン -Perverse Boy-

「感動をもらいました。」とか「感動をありがとう。」という奇妙な言い回しがこの国に定着したのは、一体いつ頃からでしょうか。2002年の日韓ワールドカップ前後から若者の間で使われ始めたように記憶しているのですが、今では公共放送のアナウンサーもニュース番組で「感動をたくさんもらいました。」を連呼しているので、今では俗語ではなくすっかり市民権を得た表現なのでしょう。

しかし私がこの表現に非常に違和感を覚えるのは、感動とは極めて個人的な心の作用であり、人や物から受け取ったり、ましてや他人から他人に移転できるものではないと考えるからです。
 
「感動をもらいました。」や「感動をありがとう。」の感動をカンドウとするなら、「カンドウ」とは、極めてお手軽で即効性のある安価な涙を流させるものであり、一方で十分な解釈や咀嚼を必要とする教養を積み重ねた上でようやく得られる「感動」とは似ていて全く非なるものでしょう。カンドウが駅前で配られるパチンコ屋のポケットティッシュペーパーよろしくテレビ等でばら撒かれて、お茶の間でジャンクフードのように消費されているのがこの国の実情です。我々が住んでいるこの世の中はカンドウが飽和しているのです。それゆえ我々はより刺激が強いカンドウを求めるようになりその結果、純粋無垢な印象を与えてくれるものや、我を忘れさせてくれるものを有難がたがるのです。

先日発覚した偽ベートベンによる楽曲偽装問題もこのような時代背景が生んだ事象のひとつでしょう。彼の手によるとされた「交響曲第一番 HIROSHIMA」のCDはクラシック作品としては18万枚という異例なセールスを記録しました。ここでは楽曲そのものに対する評価はしませんが、偽ベートーベンが被爆二世であるということに加えて聴覚障害という困難を乗り越えて大作を世に問うたという感動的ないい話があったからこそCDが大ヒットしたわけです。ただどれだけの人が純粋に楽曲そのものを評価してCDを買ったのかどうかはわかりません。CDの販売会社が作った宣伝ビデオにこの曲を録音するシーンが出てくるのですが、その際、著名な指揮者やコンサート・マスターが目をらんらんと輝かし手放しでこの作品を褒めちぎっています。「これは是非ベルリン・フィルに演奏してもらいたいです!」と。またある人気作曲家は自身のブログで、「『ロマンティシズムへの回帰』、そして『官能の海に溺れる音楽こそ、21世紀の新しき前衛』と提唱してきた私としては、彼のような人が同じ世界にいて下さることに、とても勇気づけられるのだ。」と書かれております。なんともカンドウ的な文章ではありませんか。ことの真相が明らかになった今でも、これらの芸術家先生達の見立ては変わらないのでしょうか。是非聞いてみたいものです。

写真家の荒木経惟は高尚ぶった芸術作品や芸術行為を「ゲージツ」と揶揄し、忌野清志郎は神妙な顔をしてゲージツを売る連中を「ニセ芸術家」と歌い倒しました。
 
近世までは芸術はもともと富裕層や一部の知的階層の変態じみた趣味嗜好だったのですが、近代以降それを一般大衆に広く啓蒙し大量に売るためには、感動的な有難くていい話をセットにするのが一番簡単な方法だったのです。仮に作品本体が凡庸でも、おまけが豪華に見えるのなら作品が売れるのです。

「カンドウ」とは異なるはずの真の「感動」を求める自称芸術ファンは、作品を純粋に自分の魂や直感で受容したり鑑賞するのではなく、ゲージツ作品を消費するための理由や物語を求めているだけなのかもしれません。そして消費した作品に向かって「感動をありがとう」と呟くのでしょうか。

Written by Perverse Boy

[02.28.更新]