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「菊と刀」を越えて -wildernesswolf-

2013年11月22日

文化人類学者ルーズ・ベネディクトは「菊と刀」の中で、日本人においては、世間から疎外されることによる恐怖心が自発的行動を強く抑制することを示し、集団が持つ一定の意思は個人の意思を超越するものであることを論じた。
心理学者である岸田秀氏(和光大学名誉教授)が、「幻想の未来」の中で日本人の自我(アイデンティティ)は、共同体によって依存しており、神との契約を結んだ欧米人よりも脆弱であると指摘した(神の概念は日本人と欧米人で大きく違う)。
社会心理学者の山岸俊男氏(北海道大学名誉教授)は、集団的な様々行動心理学の実験の中で、日本人は所属する集団に対して身びいきが強いことを示した。

戦後に「村落共同体」から「企業」に個人の所属する集団は変わっていったが、日本人は所属する共同体の意思を強く受け続けてきた。
利害関係が存在する中で個人の意見をはっきりと言える人は、意外と多くは無い。個人的な意見を差し控え、職責における発言に留めることが公式の場では当然となっている。また、自分の置かれている立場が変わることによって正反対に意見を変えてしまう人も少なくはない。目の前に居る人にいい顔をしたくて八方美人に調子よく振舞うのはまだマシな方だ。売り手のときは顧客の厳しい態度に不平を言いつつも諂い、立場が変わって買い手になれば売り手をとことん叩きまくる。

デフレ経済が始まった90年代末には、多くの人達が物やサービスを安く手に入れられることを喜んだ。考えてみれば直ぐに気付くことであるが、それはやがて自分自身の職を脅かし、所得の減少へと繋がっていった。そして今、デフレ脱却に向けてアベノミクスが歓迎されている。民主党にラブコールを送った人のかなりの部分が今では自民党を支持しており、そこに自己矛盾を感じる人は少数派だ。

時間軸が同じ状態の中でも、株主、従業員、消費者と利益相反関係が存在するステクホルダーを、自分に都合よくそれぞれの立場で振舞う人も少なくは無い。その言動・行動が分裂していることは言うまでも無いのであるが。

共同体としての会社が崩壊しつつある中で、マスコミやSNS内でのカリスマが自我の拠り所となり、ネトウヨが増殖する。不安定な自我は、他人を責めることで正当化するしかない。イジメやモンスター×××が登場する構造も根っこは同じである。

グローバル化とはなんであろうか?
海外に移住してしまえば「郷に入りては郷に従い」、日本人であることはやがて失われてゆく。
経済再生や、原発問題や、年金問題や、目の前に抱える問題も何とかしなければならないが、社会の流動性(移動や転職)が高まり、共通認識が薄まる社会において、共同体依存型の自我から個々人が自ら拠って立つべき自我を獲得することの必要性は、子供の教育の在り方は勿論のこと、大人(かなりの年代を含む)もまた見直さなければならないのではないだろうか?

自我の獲得なんて実はそんなに難しいことが必要なわけではない。
自分の意見をはっきり言うだけ。立場が変わったとしても主張を変えないこと。そのための知識と洞察力、そして勇気を身につけるだけのこと。もっともそのためには自己を鍛錬し、実力を養わなければならないのだけれど。
まずは見て見ぬ振りを止める事だ。

ファシズムあるいは新興宗教が蔓延る世の中にだけはなって欲しくは無い。
(偉そうなことを書きましたが筆者もまだまだ未熟者です)

By:wildernesswolf

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