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「永遠のゼロ」に書かれなかった、永遠に語られることの無い真実 —

2014年02月21日

祖父は海軍航空隊に所属する将校だった。最終的な階級は知らないが対戦前に懲罰(降格)を受けなければかなりの階級だっただろう。毎日、運転手によって送り迎えされていたと母が言っていたことや、戦時中でも家族でレストランで食事をしていたこと、戦後は、B級戦犯として捕らえられて服役していたので、大佐か、中佐くらいの階級にはあったようだ。

祖父の話しは面白かった。シンガポール、マレー、フィリピン、ラバウルなど日本軍の侵攻もそうだが、まだ海外旅行が夢だった昭和40年代に海外の話を聞くことは子供だった私にとっては驚くことばかりだった。い号作戦にも従軍し、海軍甲事件においては山本五十六機の横を飛んでいたと云う。墜落してゆく山本機が見えたそうだ。
そんな祖父が決して口にはしなかった話がある。

祖父が亡くなったのは、私が11歳の時であった。その年か翌年かは忘れてしまったが、祖母と母に連れられて夏の京都に行ったことがある。物凄く暑い日だったことは今でも憶えている。東山のあたりだったと思うが、一軒の民家に向った。祖父が生前に親しくしていた方であるとのことだった。その方の名前は、残念ながら忘れてしまったが、仮に「伊藤さん」とする。

祖父が自ら話すことは一度も無かったが、戦犯の容疑については、母から聞いて知ってはいた。祖父は終戦間際においては、特攻隊の教練を担当していた。戦局が厳しさを増す中で、少年兵が募られた。伊藤さんも特攻少年兵の1人であった。

「貴方のおじいさんに私は命を救ってもらったのです」
伊藤さんが言うには、特攻に出る直前に祖父は、死んではいけない。どんなことをしてでも生きて帰れ、と命令したそうである。そうして伊藤さんは機体の故障を装って不時着した。同じように生き残った方が他に2人居たそうである。

恐らくこうした話は、世間に出てくることは無いのだろう。祖父も決して口にはしなかったし、伊藤さんにしても限られた親しい人以外にはこの話は出来ないだろう。子供ながらにそう思ったのを今でも憶えている。

戦犯を解かれ、釈放された後に自衛隊からの強い誘いがあったそうだ。しかし、自分は若い人を沢山死なせてしまったからと言ってその話を断わり、三重の片田舎で新聞配達夫として生涯を終えた。新聞を積んで田んぼのあぜ道を自転車を走らせてゆく祖父の後を、走って追いかけたこともあった。

そんな祖父が目をきらきら輝かせながら語ってくれた話がある。
「皇居の上をどうしても飛んでみたい。」
太平洋戦争が始まるずっと前、昭和の始め頃の話らしい。
茂原の海軍航空基地から夜遅くに飛び立った。哨戒に引っかからないように曇りの日を選んだ。高度を上空高く取り、荒川の手前でエンジンを切って滑空飛行で皇居を目指した。哨戒には引っかからなかったので、ばれなかったつもりだった。しかし、何故かばれてしまい大事になったそうだ(2階級格下げになったらしい)。陛下の頭の上を飛ぶなんて当時はとんでもないことだっただろう(今でも?)。恐らく、祖父にとっては一番楽しかった、痛快な思い出だったのだろう。

特攻の教練の職務にありながら、自分の信じる正義を全うした祖父を誇りに思っている。
だから、自分の人生もまた新聞配達夫に終わったとしても後悔はしないつもりである(新聞屋さんゴメンナサイ)。
ただし、母(ならびに母の兄弟)は戦後相当に苦労をしたらしい。だからと言って祖父を恨んでいるという話しは聴いたことがない。

この話に興味を持ってくれた人がもし居るなら、私に連絡をしてみて欲しい(まだ、「伊藤さん(仮名)」はご存命かもしれないので母の記憶を頼りに辿ることが出来るかもしれない)。

特攻隊員に「死ぬな」と言った指揮官は、天皇陛下の頭上を飛んだ男だった。
そんな男だから、「死ぬな」と言えたのだと思う。

by wildernesswolf

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