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変性意識 -sleeper-

2012年05月25日

先日、妻とライブへ行った。場所は武道館、酸欠になるぐらいの人の多さだ。
ライブの場合、好きでもないと知らない曲がほとんどだ。そのため、渋谷公会堂などの狭い場所で前何列という場合でも、腕を組んでみているだけ(さすがに途中で座るが最初からほぼ全員が立っている状態で、最初は座りにくいものだ)。妻は「白人でそんなヒトたまにいるよね」と私は「そうそう、無理はよくない」と、助かる妻である。
ステージに飽きてくると「エッジ」の効いた人物ウオッチングである。妻に「あのヒトの真似して」といっても「あれはね?出来るヒトと出来ないヒトがいるのよ、ハハハ」と。

ライブにいって思うのは変性意識への達しかたがすごいヒトが多い。変性意識とは日常の意識状態以外の意識状態のこと。まわりくどい定義であるが、「ハイテンション」の状態が近いだろう。私などは、湿度が低く天気がよい日や飲酒時など、ごくまれにしかそのような状態にはならない。そのため、この箱の中の熱狂を醒めた目で見ている。私の見えているもの感じているものは、ここにいる多くのヒトとは違うのだろうなあ、とぼんやり考えていた。たとえば、ここが歴史上に残る場面の観衆であった場合、私は多数派とは全く違う印象を持つだろう。

立場と状況で見えるものが違い、それぞれのストーリーが生まれるだろう。そう思っているから私は歴史が好きではない。正確には、学校で習う歴史の仮面をかぶった政治史と「陰謀論系」の話だ。美談に仕上げ、今の価値観で時代の風に合わせて論じているだけだと。「どの戦国武将が好き?」などと質問されると、自身への投影のために歴史好きなのか、と思っていたものだ。性格の悪さがにじみ出て、それなら今の指定暴力団でだれがすき?との意地悪い質問をしたくなるものだ。だいたい同じことを質問しているイメージである。「陰謀論系」なるものも、結局は「カネと暴力装置」を持ったものが、その維持のために閨閥(けいばつ)や人脈で安定させるというヒトの知恵の賜物ではないのかという感覚である。先人に対して敬意がないわけではない。主人公とその他のお話といった形の大味の歴史は好きではないということだ。
閑話休題
ライブ後に妻と話している時も、見ている場所、感じ方、いろんなことで違いは大きい。同じ時間に同じ場所で同じものを見ているのに。変性意識状態とそうでないヒトはものの見え方、感じ方に大きな違いがでるとつくづく感じる(妻はハイテンション)。この変性意識が都合よく働いてくれるなら「何か」という力が働くのだと思う。
話もまとまりが悪くなっている。何を書きたいかというと、言葉には定義があるけれども解釈の余地があり、ものの見え方が違うのだから同じ方向性を持つのは難しい。
けれども、頭でわかっていても体が動かないというときに、第一義的にどうするのがベストであるかは、わかっているつもりだから意識的に変性意識を意識してみるとよいのではないかと思ったわけである。変性意識がエナジードリンクの添加剤になるかと。

Written by sleeper

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