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桜 -Cranberry Jam-

2012年04月13日

会社のお昼休みに、千鳥ヶ淵を散策しました。見渡す限り人、人、人。たいへんな賑わいを見せています。寒さが長引いた今年の東京は桜の開花が遅く、もう4月半ばですがまだたくさんの桜が咲いています。日本武道館では東大の入学式が執り行われていました。人生の節目である入学や卒業の時期に桜が咲いているというのは、日本人の情緒に大きな影響を与えている気がします。
「さまざまの 事おもひ出す 桜かな」 松尾芭蕉
きっと明治時代の誰かが入学を4月に定めたのでしょうが、欧米に倣って9月にしなかったのは本当に良かったと思います。

実は奈良時代までは、貴族の花見といえば当時の先進国の唐に倣って桜よりもむしろ梅でした。万葉集では桜が43首に対して梅は110首も詠まれています。

それが平安京誕生から15年後に即位した若き帝、嵯峨天皇の登場により一気に変化します。弘仁2年(812年)の春、地主神社への行幸の折、嵯峨天皇は境内に咲いていた桜に心を奪われて車を止めさせます。その桜は一重と八重が同じ枝に咲くひときわ美しい桜でした。しばし眺めた後に御所に向けて出発しましたが、桜が頭から離れない嵯峨天皇は引き返すよう命じ、家来たち慌てて牛車をUターン。都合3回も引き返させたと伝わっています。以後毎年、地主神社の桜の枝を宮中に献上させるようになりました。

桜に惚れ込んだ嵯峨天皇が弘仁3年に開いたのが花宴。記録上初めての公式な桜の花見です。これ以降貴族にも桜の花見が急速に広まります。庭造りのマニュアル『作庭記』には「庭には花の木(桜)を植えるべし」と書かれ、桜が庭の必須アイテムとなりました。御所をはじめ貴族の屋敷など都にはみるみる桜が増えていき、京の名所東山の桜もこの頃に誕生しました。ついに古今和歌集では梅18首に対し桜が70首と、梅を逆転しました。

桜は時に人を惑わし、正気を失わせてしまうことさえありました。御所の桜の美しさに取り憑かれた藤原定家は、御所に忍び込んで桜の枝を折って持ち帰るという暴挙に出ました。藤原俊家は御所の桜のあまりの美しさに、神聖な場所にも関わらず大声で歌い出してしまいます。慌てて駆けつけた警備の検非違使も桜に魅了されて一緒に踊り出す始末。中宮・藤原彰子は、奈良興福寺の桜が欲しいと家来を遣わし桜を根っこから引き抜いて都へ持ち帰ろうとします。これに怒ったのが興福寺の僧侶たち。大切な桜は渡せぬと体を張って阻止します。
「願わくは 花の下にて 春死なむ その如月の 望月のころ」西行
地位や名誉など全てを捨てて、桜の元に移り住んだ歌人もいました。

桜は今でも私たちを翻弄します。開花が近づくと浮き足立ち、今か今かと待ち侘び、花見の予定を立てては予定通りに咲かずに延期し、やっと咲いたと思えば天気が崩れて春の嵐がやってきたりと、何かとそわそわして落ち着かなくなります。
「世の中に 絶えて桜の なかりせば 春の心は のどけからまし」在原業平
21世紀になっても全く事情は変わりませんよ、と業平に教えてあげたいくらいです。(余談ですが駅名を業平橋からスカイツリー駅に改名するのは反対です)

千鳥ヶ淵の桜は満開のピークを少し過ぎていて、気まぐれに吹く春の風が、惜しげも無く花びらを舞い散らせています。お堀を見ると水面に花びらがいっぱいに敷き詰められていて、桃色の絨毯のようです。カモが進むと船の航跡のように、スゥーっと絨毯が割れて深緑色の水面が顔を出します。
「春風に 揺られて踊る 花びらが 九段の堀の 水面を飾る」
日本に生まれて良かった。心からそう思える瞬間でした。

Written by  Cranberry Jam

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