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神の木 -Cranberry Jam-

2016年07月08日

今年、長野県諏訪地方は6年に一度の熱狂に包まれました。
諏訪大社の最も重要な神事、御柱祭です。御柱祭とは、諏訪大社の御柱を建て替える儀式に伴うお祭りです。御柱とは社殿の四隅に建てられている巨大なモミの木柱のことで、それらを建て替えることによって巨木に宿る神の力が蘇るとされています。諏訪地方では、小さな祠などにも四隅に木柱が建てられており、それらも御柱と呼ばれています。御柱の数は、諏訪地方だけで大小合わせると数千本にもなります。

御柱祭では、森で切り倒したモミの大木を、山から里へと人力のみで曳いてゆきます。1本の大木を曳くのには2000人が必要です。みなの息が合わないと、重く大きな木柱は動きません。お祭りのハイライトは、木落とし。木落としでは、傾斜角35度の崖の斜面を100mにも渡って滑り降りていく勇壮な行事です。氏子たちは、文字通り命がけで祭りに向き合い、実際に死人が出ることさえあります。

御柱祭の起源や目的は定かではありません。これほどの規模の巨木のお祭りは、日本の他の地方にも、或いは世界にも例が無いのです。しかし日本列島各地の縄文遺跡で、巨木の祭りの痕跡が見られます。2700年前に発掘された栗の巨木には、御柱祭と同じように綱を通して曳いた跡があります。縄文人の主食は、ドングリやトチやクリ。落葉広葉樹の森から木の実を集めました。縄文時代には、巨木への祈りが生まれたと考えられています。

諏訪湖周辺には、縄文後期の集落が数多く見つかっています。諏訪は、日本列島に広がる縄文文化圏の一大拠点でした。その理由は、黒曜石。黒曜石は溶岩が急に冷えて固まってできた天然のガラスで簡単に加工することができます。矢尻やナイフに使われ、鋭い切れ味を発揮しました。諏訪の縄文遺跡からは、約200ヶ所の採掘跡が見付かっています。1つの採掘場から推定1トンの黒曜石が掘り出されており、諏訪の黒曜石は近畿や北陸や関東にまで広く流通していました。

水田稲作は、紀元前10世紀後半に九州北部へ伝わりました。その後400年かけて近畿まで伝播。しかし諏訪を含む中部高地の手前で、伝播が止まります。そしてなぜか中部高地を迂回して、東北へと伝わるのです。諏訪は、水田稲作の受け入れを意図的に拒否したと考えられています。諏訪の縄文人は、米ではなく、森の恵と生きることを選択しました。その暮らしを、巨木に宿る神が、いつも見守っていました。諏訪は、縄文文化最後の砦とも言うべき場所だったのです。

岡本太郎は御柱祭の現場に立ち、「縄文人が満ち満ちている」と興奮気味に話したと言われています。八ヶ岳山麓に花開いた縄文文化の息吹を感じたのでしょう。代表作である「太陽の塔」は、縄文の影響を受けているそうです。諏訪の御柱祭は、現代にまで受け継がれた縄文文化の名残りなのかもしれません。

Written by Cranberry Jam

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