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華僑に逞しさを学ぶ -Forever Young-

2011年10月28日

ティー・アイ・ダヴリュのオフィス近く神保町界隈。古本屋に並び目につくのが中華レストランの多さだ。最近、第四の中華街へとの動きもあると言う。港と移民労働者とともに発展した横浜中華街、神戸南京町、長崎新地中華街などと異なり、内陸のここに何故「新世界菜館」、「上海美食」、「源来酒家」、など煌びやかな看板が並ぶのだろう。明治維新、神田周辺が大学の集中地域になった。その後、日本の日清戦争勝利と西洋近代化を背景に、明治の終りから大正始めにかけ中国人留学生の多くがこの地域に下宿し学んだことが生い立ちのようだ。

中国革命先覚者の孫文、現在の中国の初期を代表した周恩来もこの地で学んだ。道理で量で勝負している店が多いわけである。当時は日本と中国では食文化は大きく違いここは学生生活の基礎を支える場であったのだ。オフィス近くのどこかの中華に昼によく足が向く。現場作業服の集団、4人組のOL、一人でもくもくと食事を採る腹の出たおじさん、もちろん今は留学生など見かけない。しかし、百年前の最盛期には数万人が暮らしたとの説もある。レストランは学生で埋まり、異国での体験や時は清朝末期でもあり、母国の先行きなどの話に花を咲かせたことだろう。現在は威勢よく商売に励む華僑子孫が残る。

仕事や旅行で世界を歩く。ハワイ、ロンドン、パリと殆どどこでも唐人街に接する。海外では日本人として身近な食材が手に入ることが嬉しい。また、エビチリ、麻婆豆腐と慣れ親しんだメニューを手頃な価格で味わえる喜びがある。少々辺鄙なところでも印僑のインディアンレストランは無くとも中華ならある。パリはかつての仏領インドシナからの戦争難民が多いと言う。中華街の生い立ちは色々だが、基本的には様々経緯で移民労働者として世界に散らばった華僑の集住によって出現している。慣れぬ土地で苛酷な仕事をこなす同胞を支えるべくして発展しそれぞれの土地に根付いた。

さて、最近の日本、高度成長を疾の昔に終え、継続的な円高、少子高齢化という構造問題を抱える中で巨大地震、超大型台風と試練にさらされる。将来は全く視界不良だ。こうした中、内向き志向が高まりなんか元気がないと考えるのは小職のみであろうか。神保町であれ海外であれ、中華料理を中心とした華僑ビジネスのお世話になるにつけ異国でタフに代々生活を営む彼等に逞しさを感じざるを得ない。我が子、二人も至れり尽くせりで育ててしまってはいるが、不透明な時代であるが故にどんな環境でも華僑のように逞しく生き抜く力が今、我々に必要になっているような気がしてならない。

Written by Forever Young

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